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下總 皖一(しもおさ かんいち、本名:下總覺三、1898年3月31日 - 1962年7月8日)
作曲家・音楽教育者。

埼玉県北埼玉郡原道村砂原(現・加須市)生まれ。 1920年東京音楽学校(現東京藝術大学)で作曲を信時潔に師事し首席で卒業。後ドイツのベルリン芸術大学でパウル・ヒンデミットにも師事して、後に芸大では癖のついた対位法で有名なブラームス=ヒンデミット系のドイツ音楽語法の先駆者となった。

1934年同校助教授。1940年文部省教科書編集委員。1942年同校教授、1956年東京藝術大学音楽学部長。 門下に芸大で團伊玖磨、佐藤眞、芥川也寸志、松本民之助、山岸磨夫、プライベートで須田くにおらがいる。 童謡・文部省唱歌を多く作曲した。

また多くの小学校・中学校・高等学校の校歌の作曲も手がけており、総作曲数は1200曲以上にのぼる。地味であるが堅実な音楽を残した。 代表作には「たなばたさま」「はなび」などがある。

エピソード : ベルリン留学時代のヒンデミットクラスにはハラルド・ゲンツマーがいた。
         同時期には木下保や諸井三郎もベルリン留学していた。

長岡女子師範の教師時代に、「血書」でプロポーズし、妻伸枝との結婚に成功した下総夫妻は子どもに恵まれなかった。養子縁組したその家族は、人が羨むほど仲睦まじく円満そのものであった。
昭和37年(1962年)胆石、肝臓がん、肝硬変の悪化で64歳にして他界した。

生まれ故郷の現・埼玉県大利根町の道の駅「童謡のふる里・おおとね」には銅像が建っており、「おおとね童謡のふる里室」もオープンした。下総の楽曲が多く展示されている。


  本名は下總覺三(しもおさ)であったため、
  彼のサインは「しもーさ」と書かれている。

  ←右から 伸枝夫人、下總本人、養子忠敬、
    養女とし子、前列は孫の佐代子、希代子